1871 [明治4年]

竜文切手と近代郵便の幕開け

with Icon of「竜文切手」

明治4年(1871)3月1日、近代郵便の創始とともに、日本に初めて登場した道具が、4種の切符手形、いわゆる「切手」です。それらは、銭の通貨単位である文(もん)を用い、意匠に竜をあしらったことから、総じて「竜文切手」と呼ばれています。

駅逓機関設置と飛脚制度の存続

ペリー来航からわずか15年で徳川幕藩体制が崩壊し、明治維新によって新たに樹立された新政府は、欧米列強の脅威に晒されながら、「旧習を打破し、知識を世界に求める」という、近代国家建設のための大改革に着手していました。なかでも国家建設の根幹を成す、情報網の整備においては、五箇条の御誓文に基づく、慶応4年(1868)4月の官制改革において、宿駅や通信を司る「駅逓司」を設けてこれにあたらせ、明治元年(1868)12月にはいち早く電信官営を決定するなどして、近代化へ向けた試みをスタートさせていました。

しかしこと郵便に関しては、それまでの飛脚制度を存続させ、東京〜京都間の賃金改定をしたり、公文書などの重要情報伝達のために逓送便などを設けるといった程度にとどまっていました。これは当時、新政府の実効支配が全国まで及んだわけではなく、支配下となった旧幕府の直轄領以外の諸藩では、独自の藩政が存続しており、統一的な制度の確立が困難であったためです。中央集権の第一歩として、こうした領地の返還「版籍奉還」が行われたのは、戊辰戦争終結後の明治2年6月17日(陽暦1869年7月25日)、事実上の統一国家誕生となった、藩の廃止と府県制の確立「廃藩置県」が行われたのは、明治4年7月14日(陽暦1871年8月29日)のことでした。

前島密の新式郵便構想

こうした手つかずの制度状況の中、明治3年(1870)5月に駅逓権正(ごんのかみ)に任命された前島密は、着任早々、これら飛脚屋に支払う賃金概算が、年間18,000両もの巨費となることを知ります。前島は、かつて長崎のアメリカ人宣教師から、切手を貼った信書を国家が宛先まで届けるという、安価で確実なアメリカの郵便制度の話を聞いたことがあり、飛脚屋に支払うこれほどの予算があれば、官営郵便制度の創設は可能だろうと考えました。

その構想は、東京〜京都間を飛脚同様に人の足で走らせた場合は約3日、夜間警護を立ててもこの賃金は1日28円程で、仮に1日300通の送配をすれば単価は9銭5厘程となり、これを14銭(1400文)程度に設定しても採算がとれるというもので、さらに諸外国同様、料金支払済証明用の切符手形を発行すれば、料金前納というかたちを取ることが出来るだろうというものでした。これらの構想を基にまとめられた「新式郵便」案は、明治3年6月に民部・大蔵両省の合議で直ちに承認、続いて9月に太政官承認を受け、本格的な郵便制度の準備がスタートしたのです。そして新たな郵便制度の中で必要となった新しい道具が、料金支払いのしるしとなる「郵便切手」でした。

竜文切手の誕生

明治3年9月、太政官から早速切手製造の通達が下り、民部省から大蔵省へ出された製造注文は、萌黄地の「銭五百文切手」7万枚、赤地の「銭二百文切手」14万枚、青地の「銭百文切手」14万枚、薄緒地の「銭四十八文切手」8万枚というものでした。当初この種類は、直近の宿駅までを5(18.7g)ごとに100文として、最遠の東京大阪間を1貫500文とする、100文単位の全3種でしたが、5匁を超えた場合の追加料金を規定の半額としたため、100文の半額として48文が追加されました。48文を100文の半額とするのは、96文を100文と換算する、当時の「九六勘定」に基づいて、96文を折半したものです。

切手の実製作は、太政官礼や民部省礼といった政府発行紙幣、いわゆる金札の意匠を手がけていた、京都松田玄々堂の松田敦朝(緑山)に任されました。敦朝は、幕末にオランダ人から修得した銅版エッチングで当時非常に高い技術を誇っており、同様の彫師だった弟の松田保信(龍山)とともに、明治2年(1869)より新政府に招聘されていました。

初の郵便切手「竜文切手」4種と、明治6年12月発行の郵便葉書 (通信事業創始五十年紀年はがき)

当初この新切手の意匠に関しては、前島密自身が原案を出した、梅花文様が料額の四方を取り囲む、比較的簡素な図案を基本に進められていましたが、偽造が難しいものを求めて検討が重ねられ、敦朝が描きおこした精緻な双竜の図案を料額の両側に配した、本格的な意匠を採用することになりました。彫刻にあたっては、一枚の原版から大量複製する技術が当時国内にはなかったため、1シート40枚分の意匠を全て同じように手作業で彫り込んでいきました。完成した切手は、手彫りの趣に加えて、現在のような「目打ち」と呼ばれるミシン目もなく、さらに裏糊も施されていない、素朴な手作りの味わいを持つものでした。

新式郵便の創業

創業時に設置された郵便ポスト「書状集箱」(右端)と、郵便物を宛先へ届ける「集配人」、及び駅逓局 (通信事業創始五十年紀年はがき)

明治4年1月24日(陽暦1871年3月14日)、3月1日から東京〜京都、大阪間で新式郵便を創業する太政官布告が発せられました。郵便役所は日本橋四日市、京都姉小路車屋町、大阪中之島淀屋橋角の3府に設置され、「書状集箱」や「集信函」などと呼ばれた郵便ポストは、3府22ヵ所と東海道沿の2ヵ所に置かれました。そして郵便切手は、このポスト近くの商店内などに設けられた、切手売捌所で販売されることになりました。

かくして明治4年3月1日(陽暦1871年4月20日)、日本の近代郵便が誕生しました。第一便は東京を午後4時に、大阪を午後2時に出発し、それぞれおよそ75時間半をかけ到着しました。東海道を3日で結ぶという前島の構想は、若干の遅れはあったものの、およそ達せられることとなったのです。投函された最初の郵便物は、東京発の134通、大阪京都から40通の、計174通でした。それはまた、郵便切手という新時代の道具が、社会に飛び出した瞬間でもありました。

以降郵便制度は、明治5年(1872)7月に北海道の一部を除いて全国へと拡大、明治6年(1873)には利用数1千万通を突破するなどして、急速に大衆の中へ浸透していきました。それまでの大名や一部の商人にしか利用できなかった高額な飛脚制度から、誰にでも利用でき、安価で確実且つ安全な近代郵便制度への脱却は、まさに知識を世界に求める新たな国づくりの第一歩となったのです。

参考資料: 116, 117

Date: 2006/12/15 9:56:16 | Posted by mikio | Permalink | Comments (2)

このエントリーへのコメント - Comments

Mikio | 2006/12/28 13:12:29

読み人知らずさん、ご指摘ありがとうございます。
だいぶ大きな違いになっていました。
早速修正しました。
大変助かります。ありがとうございました。

読み人知らず | 2006/12/28 12:54:44

大変に参考になりました。ただホントですか?どうぞご確認くださいませ。
○五匁 18.7kg
○東京大阪間 五百文

コメントを投稿 - Post A Comment







サイト内を検索

ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信


年代周辺のトピック


プロジェクトのおすすめ (PR)