1872 [明治5年]

日本初の統一紙幣「新紙幣」の誕生

with Icon of「新紙幣/明治通宝 一円紙幣」

明治5年(1872)2月15日、それまでの雑多に出回った「金札(きんさつ)」の著しい信用低下を解消するため、日本初の統一紙幣「新紙幣」が登場しました。防贋技術に優れるドイツに発注して製作されたそれらは、粗悪な金札とは比較にならない精巧さで文明開化の一端を示し、本格的な近代紙幣の端緒となりました。

財源確保のための金札発行とその弊害

慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」によって樹立された新政府でしたが、経済的・財政的な実権は諸藩がそれぞれ握っており、新政府の財源はわずかな皇室領(御料)3万石のみでした。こうした中でも新政府は、中央集権体制確立のための様々な政策を打ち出していくための政費、さらには反政府勢力との内戦「戊辰戦争」をも戦う上での戦費と、莫大な財源を必要としていました。明治元年(1868)5月25日、こうした厳しい財政状況を打開しようと、半ば場当たり的に発行したのが、5千万両にも及ぶ「太政官札(だじょうかんさつ)」とよばれる不換紙幣、いわゆる金札でした。

太政官札 金一分札

この当時、国内の貨幣流通状況は、幕政時代に改鋳をくり返すことで悪化していた三貨制をはじめ、各藩が困窮の中でやみくもに発行した藩札(はんさつ)、海外から流入してきた外国通貨、さらにはこれらの贋造貨なども相まって、混乱の極みとなっていました。このような状況下で、貨幣の信用がないままに濫発された不換紙幣は、当然の如くインフレを引き起こし、さらには銅版一度刷の簡易な体裁が贋造にも拍車をかけることとなり、金札に対して著しい信用低下を招く結果となりました。こうした紙幣不統一による混乱流通と、稚拙な製造技術の問題を解消し、信用を回復させる統一紙幣として企図されたのが、欧米にその技術を求める新紙幣の製造でした。

紙幣改造とドイツへの製造依頼

明治3年(1870)6月、大蔵省はその製造をアメリカに求め、精巧な紙幣へと改定する「紙幣改造」を太政官へ建議、同12日には民部省からも英国に製造を求める「紙幣改造案」が提出されます。政府は両議案の検討を進めた結果、日本の貨幣制度に大きな影響を与える米英二カ国を避け、まだ関係の薄いドイツ(当時の北ドイツ連邦)に依頼することで、高級印刷による新紙幣製造を決定するのです。

発注先に選ばれたのは、高度な紙幣製造技術を有してイタリア紙幣なども手がけ、防贋技術にも定評のあった、フランクフルトの「ビー・ドンドルフ & シー・ナウマン印刷社」でした。製造依頼は7,604万枚、総額5,000万円分で、百円・五十円・十円・五円・二円・一円・半円・二十銭・十銭の9種額面は、それぞれ縦長で同様の意匠が施され、表裏共に地紋と模様を1度づつ刷った、多色刷りの凸版印刷紙幣でした。そして表面の「明治通宝」の朱文字と出納頭緑印、裏面の大蔵卿朱印と記録頭青印は、到着後に紙幣寮で加刷して完成させるというものでした。

因みにこの明治通宝の文字は、当初一枚づつ毛筆で書き入れるという、気の遠くなる方法が試みられたものの、100名の能筆家を使っても作業がはかどらず、5万枚ほど記入したところで、押印へと切り替えられました。この明治通宝印と大蔵卿印は、出納寮に出仕していた武川希賢が彫刻した木版印で、出納頭と記録頭の銅版官印は、明治2年(1869)の新硬貨の意匠にも携わった、彫金師加納夏雄とその弟子たちの手によるものといわれています。

新紙幣の誕生

新紙幣 十銭紙幣

こうして完成した統一紙幣は、正式名称を「新紙幣」といい、明治5年2月15日から金札との回収交換で発行されました。同年9月にはさらに藩札との交換に充てる第2期製造分1億660万枚が新たに注文され、紙幣の統一化に向け動き出しました。そして流通紙幣は明治8、9年頃にはほぼ新紙幣で統一されていったのです。

新紙幣の出来映えは、印刷の精巧さ、意匠の美しさ、洋紙の滑らかさなど、いずれもそれまでの金札とは比較にならず、庶民の紙幣に対する信用度を高めることになりました。巷間ではドイツ製のこの紙幣を「日耳曼(ゼルマン/ゲルマン)紙幣」、また表面の印章から「明治通宝札」などと呼び、花柳界などではその洋紙の薄く滑らかなことから「ペラ札」や「ペラ」などと呼んで、文明開化の新奇物としての注目を集めました。また特に庶民に利用されることの多かった一円以下の額面は、一円紙幣を「円助」、半円の五十銭紙幣を「半助」などと呼んで、広く生活の中に浸透していきました。

これらの新紙幣は実際に流通が始まると、薄い紙質が損傷を受けやすく、また9種額面で意匠はほぼ同様、しかも大きさは4種で重複があり間違いやすいこと、さらにこれらを利用して額面を変造するものが現れるなど、次第に問題を抱え始めるのですが、こうした問題点を紙幣改良の材料とし、明治16年(1883)には本格的な純国産紙幣の登場を促すなど、近代弊制の幕開けを告げる最初の紙幣となったのです。

参考資料: 2, 4, 118, 119, 120

Date: 2007/2/03 10:00:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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