ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

フェリーチェ・ベアト Felice Beato (1843-1907?)

江戸城壕端大手橋

幕末から明治初期の日本を写し取った先駆者として、また横浜写真の端を開いた存在として知られるのが、イタリア系英国人の写真家フェリーチェ・ベアトです。

1843年、イオニア海に浮かぶ英領コルフ島で生まれたベアトは、義理の兄弟だった報道写真家ジェームス・ロバートソンの助手となったのをきっかけに、クリミア戦争セポイの乱阿片戦争など、戦地を渡り歩く従軍写真家として活動していました。来日は1863年頃、中国で知りあったチャールズ・ワーグマンと共同でスタジオを開き、日本での活動を始めました。

この当時、外国人の国内移動には厳しい制限がありましたが、外交官に随行するなどして、日本各地で精力的に撮影を行なったベアトは、生麦事件下関戦争の現場の様子も写真に収めるなど、江戸から明治へと向かう激動の時代の瞬間と、日本の原風景ともいえる牧歌的な風景風俗を多数撮影しました。そしてそれらは日本土産の写真アルバムとして、帰国する外国人たちに販売され、これがのちに横浜で発展する、輸出工芸品「横浜写真」の雛形ともなっていきました。

近代化していく日本の姿には興味がなかったともいわれるベアトは、明治に入ると写真業から手を引き、明治10年(1877)に写真館やネガなど一切をスティルフリードらへ売却すると、不動産業や銀相場などで一時は巨利を得ますが、米相場で財産を失い、明治17年(1884)頃日本を離れました。その後は英国やビルマで骨董品事業などに従事したのち、1907年頃に没したとされています。

参考資料: 21, 22, 24

Date: 2006/12/15 10:17:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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