ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

娘義太夫 むすめぎだゆう (1887-1907頃)

娘義太夫

明治20年代から40年代にかけ、浄瑠璃の一派「義太夫」を若い女性が演じて、東京を中心に大流行が起こりました。いわゆる「娘義太夫」の流行です。

義太夫は、大阪の竹本義太夫が浄瑠璃を集大成させ、貞享元年(1684)に「義太夫節」として開いたのがその始まりです。この義太夫語りを女性が演じる「女義太夫(女義)」は、江戸中期に始まったとされています。当初は「娘浄瑠璃」などと呼ばれ、座敷などに呼ばれて芸を披露してましたが、やがて本格的に寄席に進出すると、江戸後期の文化から天保年間にかけ、一時大きな人気を集めました。しかしこうした人気に批判的だった幕府は、女義太夫の活動を風俗壊乱であるとして度々禁令を発して弾圧を加え、数十名の召捕りにまで至った天保の改革以降は、女義太夫の活動は著しく衰退していました。

幕末から明治維新にかけ、表立った活動は影を潜めていた女義太夫でしたが、明治初めに名古屋から出てきた初代竹本京枝が東京で活躍を始めると、徐々に再興の下地が作られていきました。そして明治10年(1877)、寄席取締規則改正によって女芸人の活動が正式に認可されると、それまでの抑圧された反動もあって一気に再興を果たしていきます。義太夫人気に火をつけたのは、明治20年(1887)に若干13歳でデビューした、竹本綾之助でした。現在のアイドルの元祖とも呼ばれるその人気は、綾之助出演によって観客が殺到し、周辺の寄席を不入りにさせるほどだったと言います。こうした空前とも呼べる人気により、まさに「娘」と呼称するのが適当な、年若い少女の義太夫語りが次々に登場し、「娘義太夫」と呼ばれる義太夫人気の全盛時代を形成していきました。竹本綾之助の他にも、竹本小清や小土佐、豊竹昇之助や昇菊といった人気の太夫を多数生み出した、この娘義太夫の人気は、「どうする連」や「追っかけ連」といった、かつてのアイドルの親衛隊のような熱狂的なファンも発生させながら、明治40年(1907)頃までの約20年間にわたって続きました。

こうした人気は大正時代に入ると、よりモダンなもの、西洋的なものへと、大衆の関心が移ろいでいく中で、徐々に沈静化していきました。都市文化の華やぎの中、新派劇や浅草オペラの舞台女優といった、より近代的なポップアイコンが義太夫人気を淘汰して、新たな時代の主役へと躍り出ていくのです。

参考資料: 107, 108

Date: 2008/2/03 15:50:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

コメントを投稿 - Post A Comment