ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

仲店 なかみせ (1885/12月)

浅草寺表参道に、現在の仲見世の原型となる、連結式の商店街「仲店」が営業を開始したのは、明治19年(1886)1月1日のことでした。

江戸中期に勃興した「中見世」は、浅草寺境内の掃除や警備といった雑役義務の代償として、寺が近隣住民に対し、「見世」と呼ばれる仮設の小屋掛け出店を許可したのがその始まりです。喉を潤す茶店、郷里に持ち帰る土産物、疲れを癒す甘菓子、子どもの玩具など、万物を揃えた中見世は、嘉永年間の家康霊分祀以降、多くの参拝客で賑わうようになった浅草寺と一体化しながら、天下に響く参詣地、また盛場のひとつとして江戸時代を通じて発展しました。

浅草公園仲店

明治に入ると、神仏分離令上知令による社寺地官収、さらには公園地指定といった規制が相次ぎ、それまで中見世を管理していた浅草寺は境内地におけるその権益のすべてを失います。この結果、東京府が新たに中見世を管理をすることになったものの、厳しい財政事情もあって実質的な管理はこれ以降ほとんど行われませんでした。当時の中見世は、維新後の不安感から浅草寺への参拝者が増えたこともあって、一層の賑わいを見せていましたが、規制の緩みから立ち並んだ小屋は自由気ままに参道をはみ出し、徐々に一帯は混沌とした状況を生み出していきました (明治初めの中見世)。こうした中、明治10年代を迎えてようやくその重い腰を上げた府は、明治17年(1884)の浅草公園区画改正ののち、中見世の具体的な整備計画に着手、かねてから推進していた都市の不燃化政策に沿い、参道と見世の整理、そして木造家屋が建ち並ぶ一帯の防火線も兼ね、参道沿いを煉瓦造の商店街「仲店」として整備することとするのです。

浅草公園仲店

明治18年(1885)6月に始まった工事は、約半年を費やして、同年12月25日に落成を迎えました。同28日には、抽選によって決まった出店希望者の各店舗への入店が始まり、年末の出店作業を経た赤煉瓦2階建の仲店は、元旦の参詣客にそのモダンな店並みを披露して賑々しく営業を開始しました。完成した煉瓦仲店は、総戸数139の各店舗が2坪に統一され、仁王門際の1号棟に始まり、長短様々な15の連結式店舗棟で構成された大商店街でした。小屋見世撤去時には不満の声もあがったこの計画でしたが、完成後にはあらたな出店希望者が相次ぎ、空地に私費増設を願い出るといった程の評判でした。この結果、明治22年(1889)には、仁王門際に「番外仲店」と呼ばれる同意匠の店舗も登場しています。こうして最終的に147戸からなる店舗群を参道に並べた新生仲店は、浅草公園の近代的な表玄関を形成して、明治大正期を通じた同地区繁栄の一端を担っていくことになるのです。

現在の鉄筋コンクリート造の「仲見世」は、関東大震災で倒壊した赤煉瓦の仲店を引き継いで、大正13年(1924)に再建されたものです。

参考資料: 112, 136

Date: 2007/9/08 10:00:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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