ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

開化絵と明治の浮世絵 かいかえとめいじのうきよえ

幕末の混乱の中で閉塞的な状況に陥っていた浮世絵文化は、安政6年(1859)に開港地となり、西洋文明が一気に流入した横浜で、異国風俗を取り込んで息を吹き返していきました。それらは「横浜絵」と呼ばれ、同様に開港地風俗を描いた「長崎絵」を横浜に置きかえるようにして人気を得ていきました。

横浜の外国人や居留地の洋館、港湾風景などに画題を求めた絵師たちは、明治維新文明開化に伴って、西洋の風俗が首都圏にも及ぶと、横浜絵の性格を「開化絵」へと拡大して、東京の変わりゆく印象を次々に描いていくようになります。洋風建築、鉄道、鉄橋など、相次いで登場する新風俗を追った開化絵は、浮世絵がそもそも持っていた報道的な性格を生かして、さらなる人気を獲得していったのです。

国輝 東京築地異人館

明治の浮世絵文化はこの開化絵に手を引かれるようにして、最後の発展を見せていきます。江戸期の大首絵を復活させた豊原国周や、新聞錦絵で名を張った落合芳幾、能の要素を取り込むなど独自の表現を見出した月岡芳年、そして洋画の印象を取り込んで光線画を生み出した小林清親など、異文化の流入が結果的にもたらした多様性を含んで大きく展開していきました。

しかしこうした明治の浮世絵も、中期以降に文明開化の熱が落ち着き始めると、開化絵の廃れと共に徐々に衰退を始めていきます。そしてその時事報道性を雑誌や絵はがきなどが活発に担い始める明治30年代以降、印刷技術の急速な発達に押されるようにしてその姿を消していくのです。

参考資料: 63

Date: 2006/12/15 10:10:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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